輝いているひとが孤独なのは他者が近寄れないくらい強く発光しているから、といったことわざのような一文があった気がして、グーグルであれこれ検索してみたけれどしっくりくる答えは得られなかった。
輝きとか光とかそういう目がかすむくらいの圧倒的な希望が人間には必要で、あなたもあなたも輝いているんですよ、輝けるんですよ、光なんですよみたいな姿勢を生き様で語ることが見るひとへ活力を与えることを体感し、わたしもそんな声掛けをしてきた。
やっぱり輝いていない状態って多くのひとにとってもどかしく落ち着かないようだったから。
そのために、人間の感情はどういう言葉でどう変化するんだろうと試行錯誤してきた。
共感をベースにしたものから、激励のようなもの、希望を見出しているもの、煽るような、あえて言われるような、鋭利なことばとか。
希望を持ってほしかった。元気なころのあなたをもう一度見たかった。まだ知らないあなたを発掘してみたかった。
よくないなと思った。こんな考えかたはわたしが生活をするうえでは切り離したほうがいい、作品を、架空の人物を想像するときだけ存分に考えにしないとわたしはそのうち自己満足で、とくにそう考えているわけでもないのに、「あなたはこう言われると心地いいんでしょう」といったことばを押し付けてしまいそうだった。実際わたしは他者にリアクションを求めていた。
よくわかるね。それな、まさにそれ。
いつか自分の満足のために他者からの共感に依存してしまいそうで、他者の感情を薬物的に、自分の快楽のためだけに抽出しようとしてしまいそうで、こんな自分の恥ずかしい部分は隠しておきたいんだけど、隠しきればいいんだろ
という自分の姿勢がもうきらいでしんどくて、わたしは自分を過度に追い詰めたいわけではないから、吐露してしまおうと思った。
こんな文章にはなんの意味もなく、わたしのとある一面と、それに対する現時点のわたしの危惧を憶測で書いてみただけなので、なんの決意表明もするつもりはない。
よっぽどエゴに満ちた、利己的で詐欺的な行動をとりそうになったら、そのときまたどこかでわたしは現状を告白するんだろう。
ああしますこうしますという宣言ほどわたしに負荷をかけるものはないと知ったので、できるだけ避けることにする。
「お前の言うことは実にそれらしいけれど現実がそうとは言い切れんから考えることから切り上げよう」
と言ってくれる存在に助けられながら、わたしは少しずつ白く、やわらかくなろうとしている。これでも輝きを求めている。
あなたがいままで吸った煙草のお金でベンツが買えたんですよとか、◯◯は✕✕に換算したらこのくらいだったんですよとか、そういう比較を通して「お前はいくらかのお金を無駄に消費した」と指摘する人間がいる。嗜好品に100万円つぎ込んだ人間に対して「車を買える金額じゃん」とか。そういう指摘や思考って野暮だなと思った。煙草を買い続けるひとは煙草がほしいからお金を出しているだけで、むしろベンツにお金を出すくらいならそのお金で何カートンの煙草が買えると思ってんだと考えるだろうし、そういったなぞの比較をして指摘する人間は当人が「それ(欲しいもの)だったからお金をかけようと思った」という大切な前提を無視している。わたしもたまにそういう思考でものを話してしまうことがあるから、最近は気づいたら早めに謝ることにしている。他者のお金の使い道に軽々しく首を突っ込むのは野暮なことだ。不安や心配とかいう自己中心的な感情を解消するために口出ししているようにしか思えない。あまりにも思いやりのないいっぽう的な指摘だ。わたしも恋人の金遣いに思わずそういったことを言いがちなので、気をつけたい。
わたしはほぼ毎日、だれにも会う予定がなく、外出の予定がない日でも化粧をする。コンタクトレンズをいれて下地を塗って眉をかいて口紅を塗る程度の簡単なものだけど、こうすると眠たかったきもちから一転してシャキッとするし、なにかしようかなという意欲が出てくる。そういういわゆるオフの日は肌を休ませてあげましょうといった記事をよく見るけど(最近は日焼け止めだけは毎日必須という内容のものもある)わたしは生きている以上、生活している以上、起きている時間はすべてオンモードなので、自分のきもちを高めるために化粧をする。ちふれの549番の濃いめの赤を惜しみなく塗るだけでも生活へのモチベーションが高まる。洗い物をしよう、洗濯物をたたもう、なにか書こうと能動的になる。いまがそれ。
多くの魔法少女は闘うときに変身するけれど、あれは変身によって強くなったり魔法が使えたり身バレを防ぐためにするだけではなくて、ドレスアップすることで闘うぞというきもちのスイッチを入れているんじゃないだろうか。セーラームーンや最近のプリキュアは変身後に化粧も施されるようになっていて、はじめは良い演出だなーとしか思っていなかったんだけど、だんだんわたしが化粧することで得られる意欲と同じような効果を魔法少女たちも変身によって得ているんじゃないかと思えてきた。わたしはセーラームーンやプリキュアのように劇的な変身はできないけれど、生活もある意味闘いなので、きょうも紅を引くことで覚醒し、背筋を伸ばし、さあやるぞと心構えして、こうして文章を書いている。
かつてとある冊子を紹介した際に「こういう日常生活を哲学的に分析した文章を書いていきたい」とコメントしたことを思い出し、もう一度やってみようと思ったのでブログのタイトルを”コラム”にした。コラムと呼ばれるものには議題、個人的意見、根拠の3つの材料が必要らしい。人生をより良くするための啓蒙コラムは巷で溢れかえっているので、あんまり役に立たない、日常に寄り添い、ただルールに乗っかっただけの地味なコラムを書いていけたらいいなと思った。いま。
いまでは何人が見てくれているかわからないこのブログも気がつけば作って三年経ったらしい。ひとつのブログを長く続けられない人間だったから途切れ途切れの更新でもこうして継続できていることは我ながらへえ〜と感心した。ここを通して知り合った大切なひととの約束が果たせていないことが気がかりでなぜかブログから距離を置いたりしていたんだけど、せめて、もう少しだけ待っていてくださいとメッセージを送れる自分になりたいと祈る。どうかもう少しだけ待ってください。そしてリアクションをくださるみなさま本当にありがとうございます。
なくなってしまってからずっと想いを馳せていたnisshiが2になって帰ってきた、という報せを聞いてさっそく検索してみた。nisshi2。アカウント登録の必要がなくて、記事を投稿するとパブリックフィードとマイページという場所に記録が残るかたちになっていた。記事には「読んだ」と「いいね」をつける機能が追加されていた。アカウントを作れない点がしっくり来なかったのでいまはたまに見に行くくらいだけど、やっぱり好きな空間だなあと思う。かつてnisshiがなくなるというときにバックアップをとらなかったので過去の自分があそこでなにを書いていたのかわからないしまったく思い出せないんだけど、毎日楽しく文章を書いていたことは覚えている。だからなくなっても復活を待ちわびていたんだろう。最近頻繁にそのころの記憶を思い出しては、あとからどれだけ恥ずかしくなって消したくなってもいいからなにか書きたいという衝動に駆られる。このTumblrではなにか書きたいとしか書いていなくてたびたびそんなしょうもないことを書いて……と後悔するんだけど、もうそういう衝動を吐き出すための場所なんだと思うことにした。知らないアカウントのいいねが流れてくるようなSNSに疲れたかたにはnisshiはとても居心地がいいと思います。おすすめです。
祖父の誕生日が6月6日だったんだけどいまだにおめでとうの一言も伝えられていない。年賀状の返事も怠ったままずるずると疎遠になっている気がする。祖父母に献身的だったころは定期的に顔を見せてかれらの話を聞いて自分の状況も伝えてお互いがんばろうねと励ましあっていたんだけど、ある出来事があってわたしがふたりに対する感情を失ってしまったのでなにもかもめんどうになって、いま。という感じだ。こういう宙ぶらりんの人間関係がいくつかあって、それらを思い出すたびに自分の不甲斐なさに疲弊してどろどろと溶けてしまいたくなる。こんなところに書いたところでつながってるんだか切れてるんだかわからない中途半端な関係性が改善されるはずがないんだけど、いまのわたしはその半端な状態に嫌気はさしても、じゃあかれらとどういう関係になりたいのかと自問してもなにも見えてこなくて、結局時間だけが過ぎていく。このままいっそみんなわたしのことなんて忘れてくれと自暴自棄になってしまうときもある。妹は誠実な人間なので大切にすると心に決めた人間とはどこまでも真剣に向き合い、必要がないと思った関係はバッサリと切っていく。見ていて少し怖くて、けれど清々しく、気持ちがいい。わたしは大切にしたいと思っているひととすら真摯に接していない気がして、もっと情熱的に他者を愛したいものだなあと思う。本当にそんなことを思っているのか書いていてよくわからないけど、そういう思いがないわけではない。宙ぶらりん。案外快適だからこの状態に甘んじているのかもしれない。そんなものすぐに失ってしまうんだろうけど。
京都芸術花火を見てきた。開催される京都競馬場は全席有料なので、わたしたちは競馬場から少し離れた河原(の手前のコンクリート)で見ることにして、小さなレジャーシートを敷いて腰を下ろして、作ってきたハムチーズサンド、厚焼き玉子のサンド、いちごジャムとマーガリンのサンドとからあげを頬張りながら花火がはじまるのを待った。昼間は雨が降っていたのが、花火の時間に近づくにつれて雲行きが変わって、どうぞ花火を楽しんでくださいと言わんばかりの晴れ模様になった。いつの間にか同じようにシートを地面に敷いて座って花火を待つひとでいっぱいになっていた。あまり花火には期待していなくて、申し訳程度の、本当におこぼれのようなものを見られたらいいほうかな、と思っていたら花火がはじまった瞬間ギョッとした。大きい。いままで見てきたあらゆる花火より一番近くて大きな花火が連続して打ち上げられては消えてを繰り返した。一時間のあいだ、ドンという大きな打ち上げ音と、きらめく火花に釘付けだった。競馬場からぼんやりと音楽が聴こえてきて、それに合わせて打ち上げているんだということを知った。弾ける火薬と降り注ぐ火の粉が美しくまぶしくて、何度も目を細めた。ぼやけた視界に映る花火もまたきれいで、打ち上げ音とともに心臓の音も跳ね上がっている気がした。花火が終わり最寄り駅に向かって住宅地を通っていると、多くの家の車にカバーがかけてあって、ここまで火の粉は落ちてくるのか、けど納得だなと思った。五月の疲れを洗い流してくれるような、迫力のある花火を見られてしあわせだった。
こんにちは。お加減いかがですか。わたしは元気です。いろんなことがありました。がとても元気です。あちこちで日記を書いているのでまた何食わぬ顔してシェアするかもしれませんが見守っていただけるとうれしいです。取り急ぎ。
親友の飼っていた犬が産んだ子犬を一匹引き取り、室内で飼いはじめてからそれほど経っていないころの話だ。どうしてそうしたのかわからなかったけれど、当時十歳かそこらだったわたしは二階の自室ではなく一階のソファで夜を越そうとしたことがあった。だれもいないリビングはしんとしていて、なんとなく冷えていた憶えがある。どうしようもない、そわそわとした気持ちがわたしをソファへ連れて行って、とにかくそこに寝そべって一眠りしたのだった。ふと目が覚めると、足の先は冷たくかじかんでいたのに、お腹のあたりが生温かくて、なんだろうと見てみると犬が丸くなって、わたしの折り曲げられた身体のくぼみにすっぽりと収まっていた。温かさの正体は犬の体温だった。普段落ち着きのない犬がこのときはわたしが動いてもびくともせずにじっと丸まったままで、それが、わたしが抱えていたどうしようもなく寂しい気持ちに寄り添ってくれているようで、胸が締め付けられた。結局朝まで犬とからだをくっつけて眠ったような気がする。もう亡くなってしまったけれど、なにかとあの日のことを思い出しては、救われるような、支えられているような気持ちになるのだ。